スポーツの記事の原稿に目を通していて、ふと、「おい、アベックって言葉、最近使わなくなったよなぁ」と記者連中に声をかけた。本紙は、今号もそうだが「アベックV」とか「アベック優勝」とか、結構使っている。昭和二十八年生まれの記者が、「そう言えば…」と切り出した。「がんびって、若い人には通じないんだよね。言葉って、使わなければ死んじゃうんだなぁ」としみじみ言う。今号の「マダム・ケロコのおいしい話」に載っている「居酒屋・がんび」に取材に行った昭和五十年代生まれの女性記者を含め、三十代、四十代の社員は、だれも「がんび」という言葉も、その意味も知らないという。

「がんび」、白樺の樹皮を指す北海道の方言。良く燃えるので、薪や石炭ストーブの焚き付けとして使った。この言葉を聞くと思い出す光景がある。昭和三十年代、道北の寒村にあった米軍キャンプのゴミ捨て場。そこに捨てられている紙が「焚き付けにしたら、がんびより燃える」と村の子どもたちの間で「燃える紙」の争奪戦が起こった。母親に「アメリカ人のゴミ捨て場を漁るなんて、そんな恥ずかしいことするんじゃない」とこっぴどく叱られた。

その紙の正体を知ったのは、それから十年近く後、上京してからだった。あの燃える紙は牛乳のパックだったのだ。蝋を塗った紙の箱。燃えるはずだ。米国本土から、多分飛行機で、極東の小さな村の基地まで運ばれて来たのだろう、米国軍人用の牛乳のパックを、村人たちはその何たるかを知らず、焚き付けに使った。受験浪人、一人暮らしの東京のスーパーマーケットの店頭で、「燃える紙」に詰められて売られている一リットル入りの牛乳を手に、「こんな国と戦争して勝てるなんて、誰が考えても無理なのになぁ」と無性に哀しくなった記憶がある。枕はここまで。

五月三十日付、朝日新聞。「君が代斉唱 『反起立』二審も有罪 元教諭に東京高裁 誘導 『卒業式妨害』」の見出しで、次のような記事が載った。少し長くなるが引用する。

――〇四年三月に行われた都立板橋高校の卒業式で、君が代斉唱時に着席するよう保護者らに呼びかけ、式の進行を妨害したとして威力業務妨害罪に問われた同校元教諭・藤田勝久被告(67)の控訴審で、東京高裁(須田賢裁判長)は二十九日、元教諭の控訴を棄却する判決を言い渡した。

須田裁判長は、藤田元教諭が校長らの制止を無視して呼びかけ、式開始を二分遅らせたことが威力業務妨害に当たると認め、罰金二十万円(求刑懲役八カ月)を命じた一審・東京地裁判決を支持。弁護側は判決を不服とし上告した。(以下省略)

旭川市民劇場の四月例会で「歌わせたい男たち」(永井愛/作・演出、戸田恵子/主演)を観た。先述の都立高校の卒業式をそのまま舞台にしたような、君が代を「歌わせたい」勢力と、「内心の自由」を理由に反対する教師の格闘の姿を通して、笑いの渦に客席を飲み込みながら、国とは何か、権力とは、民主主義とは、規範とは、良心とは、仕事とは何かを、グサリ、グサリと突き付けられる芝居だった。

観劇した折に購入したパンフレットに「世界の『国家斉唱』事情」なる記述があった。欧州やアジアなど十九カ国の国家斉唱について列挙されている。ちょっと驚いた。ヨーロッパの国々のほとんどは「入学式・卒業式といった式典がない」のだそうだ。英国、フランス、ドイツ、イタリア、デンマーク…。英国では「行事での国旗掲揚・国家斉唱はない」。ドイツでは「学校で国歌は教えない」。スウェーデンは「国旗は教師に一任。国歌は特に教えない」。スイス「国歌を歌うことはほとんどない」。

どうも、国旗・国歌にこだわるのは、アジアの国々に多いようだ。中国、韓国、ネパール、インド…。日本もアジアの国の一員として、法律で、強制的に、教育現場を中心に、直立不動の最敬礼をさせなければならない、となったのか?

ヨーロッパの土を踏んだ経験がないから、偉そうなことは言えないが、きっと彼の地の学校というのは、式典やお固い行事、言ってしまえば整然、一律、横並びとは全く異なる場なのではなかろうか。つまり、教育施設は、“建て前”の世界とは別にある。人を律する規範が、国旗や国歌とは違うところに、ちゃんとある。そんな気がする。

東京都教育委員会が〇三年十月に「教師は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」との通達を出して以来、処分された教師は四百十人にのぼるという。減給や停職、退職後の再任用拒否に脅されて、最近は渋々起立して、口パクで君が代を歌う先生が増えているとも聞く。あぁ…。

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