八月三十一日朝の食卓。いつものニンジン・リンゴジュースを飲みながら、私はつぶやく。「国連が承認しなくても、ドイツやイギリスやイタリアが同調しなくても、アメリカはシリアにミサイルを発射するんだろうなぁ」。

 家人が答える。「もし、安倍さんが目論んでいる憲法解釈の変更がおこなわれて、集団的自衛権の行使が認められることになったら、もしかすると、日本は米国がシリアにミサイルを撃ち込むのを支持すると世界に表明して、同盟国のアメリカの兵隊を守ると称して、自衛隊を派遣するなんてことにならないの?」

 私「防衛大臣なんかは、集団的自衛権の行使が認められても、自衛隊が米国と一緒になって地球の裏側で戦争するということではないと言ってるらしいけど、それこそ解釈を変えたり、拡大したりすれば、何でもできるさ」

 家人「いいですか(怒ると言葉がやけに丁寧になる)、日本国憲法は、国権の発動たる戦争と武力の行使は、国際紛争の解決手段として永久に放棄すると謳っているんですよ。もしも安倍さんなり、防衛大臣なり、自民党の幹部なりが『米国のシリア攻撃を支持する』なんて発言をしたりすれば、議員辞職に値する犯罪行為ですよ。国の政権の中枢にある者が、その国の憲法に反する行為に賛意を表明するわけですからね。戦前ならば国家反逆罪で逮捕だわ」

 米軍は人的、経済的コストを要する地上軍の投入はせず、軍事施設にミサイルを撃ち込むのだという。戦争がいかに近代化されようが、そこで起きる事象は変わらない。子どもや病人や年寄り、赤ん坊を抱えたお母さん、障がいをもつ人…、最も弱い者が最も大きな犠牲を強いられる。撃つ側はボタンを押すだけだが、ミサイルの行き着く先では、頭や手や足が引きちぎられ、肉や内臓が飛び散る阿鼻叫喚の地獄となるのだ。たかだか六十余年前、私たちの父母や祖父母が実際に体験したではないか。だから当時の日本国民は、米国に押し付けられたのかどうか知らぬが、戦争放棄を謳う新憲法を歓喜をもって受け入れたのではなかったか。私は、学校でそのように習ったし、そのことを誇りとして六十一年生きてきました、はい。

(工藤 稔)

(全文は本紙または電子版でご覧ください。)

●お申込みはこちらから購読お申込み

●電子版の購読は新聞オンライン.COM

ご意見・ご感想お待ちしております。