亡父は一九二三年(大正十二年)生まれ。国鉄を定年退職した年、五十五歳で逝った。軍隊に引っ張られ、一九四五年(昭和二十年)八月、旧満州でソ連軍の捕虜になった。決して多弁な人ではなかったが、私が小学生の頃、眠る前の布団の中で、軍隊時代のこと、捕虜となって連れていかれたシベリア・タシケントのことなどを話してくれた。私が十歳から十二歳にかけての頃だから、父は四十歳前後だったことになる。例えば、こんな話だ。

 ――戦争が終わる少し前、上官に飛行機の整備を命じられた。部隊の偉い人たちは整備を終えた飛行機で飛んで行ってしまった。戦争に負けた、戦争は終わったという話が、ようやく父さんたち下っ端の兵隊にも伝わってきた。偉い人たちが逃げた理由が分かって、父さんたちも急いで残っていた飛行機を整備して逃げようと思ったら、その時には、空にソ連軍の飛行機がぶんぶん飛んでいた。

 ――持っていた鉄砲を取り上げられて、貨車に乗せられた。どこに連れて行かれるか分からない。何日か走ったら、海が見えた。日本海だと思った。「日本に帰れる」ってみんな喜んだけど、それは大きな湖だった。途中、駅で停まると、大きな食堂のようなものがあって、そこで硬い黒パンとスープが出た。戦争が終わってからまだそれほど経っていないのに、大急ぎで建てたんだ。ソ連はすごいなって思った。

 私は一九五一年(昭和二十六年)生まれ。父親から、そんな話を聞かされた頃、つまり敗戦から二十年近く経ていたのだが、家には父親が満州からシベリアへと携帯し続けて持ち帰ったカーキ色の毛布や軍用スコップがあって日常的に使っていた。毛布はゴワゴワした肌触りで硬く、石炭小屋の小さなスコップは柄の先が丸い形状で、こんなもので父さんは塹壕(ざんごう)を掘ったのかと思ったものだ。親類には戦場で命を落とした者はいなかったが、それでも戦争の匂いはまだ身近にあった。

 父が生きた年月よりも、私は十年余分に生きた。敗戦から七十二回目の八月十五日、新聞やテレビで戦争についての記事や番組を見せられるのだが、ふと、私は大きな勘違いをしていることに気が付いた。ミッドウェー海戦、アッツ島、硫黄島、東京大空襲、沖縄戦、広島と長崎への原子爆弾、そしてマッカーサー、村の米軍基地…。日本は真珠湾を奇襲して最初は勝っていたけれど、物量に勝るアメリカが態勢を立て直し、最後は原爆を落とされて、しまいにソ連が中立条約を反故にして参戦したため、ポツダム宣言を受け入れざるを得なくなったのだ、と。

 私たち日本国民の多くが、先の戦争はアメリカに負けたのだと錯覚している。父親が満州で捕虜になった私でさえ、そう思っていた。事実は違う。一九四五年(昭和二十年)の今日、八月十五日、日本はアメリカに負けたけれど、中国にも負けたのだ。今は二つに分断されている朝鮮にも、ベトナムやミャンマー、シンガポール、インドネシアなどのアジアの国々にも敗北して、逃げ帰ったのだ。その事実を改めて確認しようと、久しぶりに年表を開いた。

(工藤 稔)

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