ショックだった。古希を過ぎて、私の情報収集能力が減退しているのは事実だが、それにしてももう少し報道が大きく取り上げていいニュースのはずだ。知ったのは、「週刊金曜日 十月二十九日号」の誌面だった。
 「東電福島原発事故の責任問い続けた元酪農家 長谷川健一さん 甲状腺がんで逝く」の見出し。少し引用しよう。
 ――東電福島原発事故で多くの人たちの人生が一変した。飯舘村で酪農を営んでいた長谷川健一さんもその一人だ。「泣き寝入りはしない」と闘い続けた長谷川さんだったが、今月二十二日亡くなった。
 ――(前略)原発事故後、飯舘村内で若くしてがんで亡くなる人が相次ぐ事態を、長谷川さんは憂い、心配していた。昨年(二〇年)二月、長谷川さんは同村前田地区の自宅で、筆者にこう語っていた。
 「五十代後半から六十代の、俺よりも若い人が亡くなっている。そのほとんどが、がんなんだけどな。原発事故前の飯舘村で、こんなことはなかった。
 俺らと同じ年頃で逝くわけだから余計に記憶に残るんだ。それも、がんが見つかってから、そんなに時間が過ぎないうちにどんどん悪くなって逝っちまうんだから。
 八十歳や九十歳でがんになるのはしょうがねえな、天命を全うしたんだな、とも思えるけども、六十代だとそうはいかねえべ」(引用終わり)
 享年六十八歳。読者の中には記憶している方もいらっしゃるだろう、長谷川さんは二〇一一年三月十一日の東電福島第一原発事故から一年後、一二年三月、旭川で講演した。当時、私は長谷川さんの話を小欄で紹介している。
 飯舘村は原発事故の前年、一〇年に「日本で最も美しい村」に認定されている。長谷川さんの牧場があり、区長を務める前田地区で、使われなくなった牧草地をワラビ園にして小学生を招待したり、地区のお年寄りが先生になって村の歴史や食べ物について伝承するイベントを企画したり、かつて水流を利用してコメを搗(つ)く施設として村に十四カ所もあった「ばんかり」を復元したり…、それらの取り組みをきっかけに、村民が力を合わせて「美しい村」「までいな(ていねいな)村」を目指したのだった。
 そして原発が爆発する。三号機が爆発した三月十四日、飯舘村役場の線量計の値が平常時の年間許容量(一ミリシーベルト)に一日余りで達する「毎時四十マイクロシーベルト」を計測していた。長谷川さんに向かって、村の職員は「この数字、公表しねえでくれよ。(菅野典雄)村長から『絶対人に言うな』と止められている」と口止めした。

(工藤 稔)

(全文は本紙または電子版でご覧ください。)

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