東鷹栖の黒川博義さんが亡くなった。満八十歳。突然の死だった。

 初めてお会いしたのは、一九九一年初夏。その頃、現在は旭川市と比布町の「公園」になっている突哨山にゴルフ場の建設計画が浮上していた。突哨山のふもとで水田を中心に営農する農家の四代目。日本中が土地や株や美術品やゴルフ場会員権に大金を投じる、狂気のバブル経済が崩壊に向かう時期だった。

 突哨山は地元住民を中心に百六十人ほどの地権者が所有する「里山」だった。かつては炭焼きや放牧が行われ、一部は畑としても使われた歴史がある。黒川さんがゴルフ場建設の情報をつかんだ一九九〇年の時点で、開発者による土地の買収はほぼ終わっていた。黒川さんは、北海道知事や旭川市長ら七人・機関にあてて、ゴルフ場開発をやめるよう求める手紙を書き、ただ一人で反対運動を始めた。

 反対の理由は、「ゴルフ場で使う農薬が農業用水や飲料水に流れ込むから」だった。記者になって三年目の私のインタビューに、黒川さんは次のように話した。三十年たった今も、その時の黒川さんの語り口を覚えている。

 「私たち農家も農薬を使います。でも、それは最低限だ。私の子どもが食べても安全な量なんだ。だがゴルフ場は違う。突哨山の南側、私の家や水田がある側には川がない。だから下りてくる水は全て農業用水路に入る。一部はオサラッペ川に、そして一部は石狩川の旭川浄水場の上流に流れ込むんです。小学生の娘が農業を継いでくれるかどうかは分からない。でも、汚染された土地を遺すわけにはいかないよ」

 突哨山は、春の野草・カタクリの大群生地だ。後に四月中旬から五月にかけて、新緑が萌え始める前の雑木林で、林床一面を埋めて咲き誇る薄紅色のカタクリと淡青色のエゾエンゴサクの夢のような光景を目にした。“花より団子”的性質の私でさえも息を飲む、壮大な自然美だった。

 九一年七月、旭川大学の出羽寛教授(当時)を代表に、突哨山の自然を考える会(後に突哨山と身近な自然を考える会に改称)が発足。小さな子どもを持つお母さんたちも参加して、街頭署名など地道な運動が続けられた。黒川さんと同志とも呼べる関係にあった出羽さん(78)の話。

 ――忘れもしない一九九一年五月十二日、田起こし作業中の黒川さんと初めて会いました。あれから三十二年、ゴルフ場反対運動から始まった付き合いが公私ともに続いてきました。

 ゴルフ場反対、その後の公有地化を求める運動がきっかけになり、東鷹栖第二小学校の「突哨山学習」が始まりました。全学年が一年間を通じて突哨山について様々な学習を行います。黒川さんは突哨山の歴史や農家の生活について講師を務めました。

 黒川さんはまた、子どもをもつお母さんたちの力を大切にしてきました。こうした地元とのさまざまな活動が生まれ、地域との関わりが持てるようになったのは、米作り農家の黒川さんがいたからにほかなりません。

 黒川さんは私にとって、突哨山に行けば麓に黒川さんがいるという安心感、精神的支柱でした。黒川さんがいなくなったこれから、どうしたら良いのかというのが正直な気持ちです。

 一九九三年から毎年、カタクリが咲く早春、「野の花のお花見」と銘打ってカタクリフォーラムが開催される。その主催団体の代表を務める堀川真・名寄大学教授(57)の話。

 ――黒川さんといえば、カタクリフォーラムのためにいつもお米を提供してくれたことを思い出します。顔の見えるお米を食べたのはそれが初めてで、くり返すうち普通のこととなりました。過ぎてみれば贅沢(ぜいたく)なことです。そのお米で、突哨山を応援しようという多くの人たちがおにぎりをつくり、集まった。カタクリフォーラムは、突哨山のお米が市民のおにぎりになって帰ってくる日でもあったのです。黒川さんは、地面と私たちをつないでくれた人でした。

 黒川さんの経歴を少々。一九四一年十月生まれ。旭川農業高校、法政大学通信教育部の経済学部を卒業(亡くなるまで知らなかった…)。二〇〇一年から東鷹栖農協の組合長、〇三年からは鷹栖農協と合併した「たいせつ農協」の初代組合長を務めた。奥さんの千代子さん(77)は、「若い頃から農協や農連の会議やら何やらで、忙しい人でした。普段からあまり話をしなかったけど、最期もなんにも言わないで、あっという間に逝ってしまって…」と肩を落とす。

(工藤 稔)

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