医者に車の運転を禁じられている。本人である私の受け止め方は、「できることなら、車の運転は控えたほうが良いでしょう」というニュアンスだ。大きな手術をして、身体にダメージが残っているから、精神的にも負担になる車の運転はやめておきなさい、という意味だと理解した。

 ところが家人は異なる理解をしている。「お医者さんは、左半身に麻痺があるから、運転は無理だと言っているのよ。反射神経も鈍くなっているし、事故を起こしたらどうするの? 絶対にダメよ」と。

 確かに三回目の胸部の動脈瘤にステントグラフトを挿入する手術の前に、主治医に「年齢からいって血管をいじるとゴミのようなもの、プラークが脳に飛んで、軽い脳梗塞を起こす。軽いからリハビリで間違いなく回復する程度だ」と説明されていた。術後、医者の予言通り左脚に軽度の麻痺が出た。

 家人の話を聞いている息子は、「どうしても運転をすると言うなら、親子の縁を切ってからにして」とまで言う。昔から絶縁とか勘当というのは、親が放蕩息子に言い渡すものだと相場が決まっているのだが。

 病気をする前から、仕事で第一線を退いたら運転免許証は返上すると決めていた。だが、まだ気持ち的に中途半端だ。突然の入院から半年間、私が不在でも会社は大丈夫だと実証できたが、心の片隅には「オレがいなければ」の気持ちが少しあるのかも知れない。

 廃刊になった日刊紙の残党とともにウィークリーを立ち上げて、ちょうど三十年になる。活字を刷った紙の媒体が次第に影響力を失っていく時代のただ中で、週一回発行の地方の弱小新聞社がどこまで生き延びられるか。この三十年の間に、経営的に試してみたかったこと、やり残したことが山ほどあると自覚するから、最期まで見届けたい、という思いがなくもない。

 偶然見つけてもらった大病は、「そろそろ身を引く時期ですよ」という神様のお告げじゃないか、神様がいればの話だけどと、家人は忠告する。確かに、そんな気がしないでもない。

 今年十月には七十二歳になる。国鉄を定年退職した年の夏に五十五歳で逝った亡父よりも二十年近く長生きしてしまった。六十歳の誕生日まで、一日に八十本のタバコを吸い、深酒、徹夜麻雀とかなり乱脈な生活を誇ったから、七十歳を超えて生きるなんて思いもしなかった。父親の早世を考えても、である。

 だが、家人は「あなたは、間違いなくお義母さん似よ」と断言する。いまは施設に入居している母親は今夏九十七歳になる。九十六歳になる寸前まで一人で暮らしていた。いまも、三食美味いご飯を供され、週二回の介助付き入浴もあって、いたって達者に暮らす。下手をすると、こちらが先に逝っちゃう雰囲気だ。

 話が逸れた。あさひかわ新聞と私の話に戻す。この国全体が、右へ右へと傾斜していく流れだ。極右の安倍晋三政権から、その亜流・菅義偉政権を経て、岸田文雄政権に替わって、右への潮流は止まるまで行かないにしても、多少はやわらぐだろうと観ていたのだが、まったく読み違いだった。

(工藤 稔)

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