会社の本棚を整理していて、かなりくたびれた沢木耕太郎の文庫本を見つけた。『チェーン・スモーキング』。奥付に「平成八年四月一日発行」とある。三十年近くも前の本だ。古本屋で買ったものか、誰かに借りたままになったものか。いずれにしろ読んだ記憶はない。自宅に持ち帰って、就寝前の“睡眠剤”として読み始めた。

 十五編のエッセイが収められている。その二編目を読んでいて、ふと、既読感を覚えた。「逆転、逆転、また逆転」のタイトル。話は、エディ・マーフィー主演の映画『大逆転』に始まり、『王子と乞食』の物語から、ヘンリー・フォンダ主演の映画『十二人の怒れる男』の逆転劇へと進む。そして沢木は…。

 ――もっとも、「逆転」は映画の専売特許ではない。私たちの実人生にも大小さまざまの「逆転」が用意されている。
 と書いて、なんと納豆の話に飛躍するのだ。テレビのショー番組で、アイドル・タレントと称される少女歌手が、納豆のさまざまな食べ方、みそ汁に入れたり、茶漬けにも納豆を使ったりする、と話した。以下、引用と併せて。
 ――司会者も観客も、この可愛らしい顔つきと、多少グロテスクとも言えなくもない納豆の食べ方との落差の大きさに、なかば呆れたような嘆声を発していた。
 翌日、沢木は、ある女優と酒場で呑んでいるうちに、納豆についての話をしはじめていた。テレビで観た少女歌手の“納豆礼賛”についてである。すると、女優も、実は私にも納豆で人に呆れられた経験があるのだ、と話し始めた。
 ――何年か前、彼女が大学時代の友人たちとスキーに行った折のことだ。そのとき泊まったのは民宿で、和風の朝食に納豆がついてきた。彼女はいつも自分の家でしているように、糸を引かせた納豆を御飯の上にかけ、箸で掻き混ぜた。すると、まわりの友人たちが蛮人の奇異な食習慣でも見るような表情を浮かべたという。
「どうして?」
と私は訊ねた。
「友人たちは納豆と御飯を掻き混ぜて食べたりはしないと言うの」
掻き混ぜないとするとどのようにして食べるのだろうか。
「納豆は納豆、御飯は御飯で食べるらしいの」
私もこれまで納豆は御飯と掻き混ぜて食べてきた。それは一般的ではないのだろうか。
「そこにいた全員が、変だと言うの。おかしいって」(中略)
 ――考えてみれば、納豆などというのは元来が自分の家で食べるものだろう。家の外で食べるとすれば街の定食屋か、せいぜい一杯呑み屋くらいのものである。正式の会食の場に出てくることは滅多にない。そこで、自分の家の食べ方こそが納豆の食べ方のすべてだと無意識のうちに信じ込んでしまうことになる。誰も正しい納豆の食べ方などということは教えてくれないし、そんなことは料理の本にも、マナーの本にだって出てこない。(後略)

 エッセイは、納豆の話から、寺山修司の歯の磨き方やアメリカのコラムニストの日光浴の話へと変転し、最後は映画『十二人の怒れる男』の主人公「第八号」の正義感について、「逆転」にさらされたことのない「正義なるもの」は、「邪悪なるもの」より始末におえないことが少なくないからだ。で終わる。

(工藤 稔)

(全文は本紙または電子版でご覧ください。)

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