久しぶりに東京に行ってきた。五年ぶりくらいか。人の多さに酔いそうになりながら電車やバスに乗って、気づいたことがある。
例えば、ある程度混んでいる電車が駅に停車する。すると、それまでスマートフォンをいじっていた人が、急に立ちあがって出口に向かう。周りの人は、仕方なさそうに体をかわして通してやる。彼は、停車する前に、周囲の人に対して「私は次の駅で降りますよ」という信号なり、メッセージなりを体の動きで発信していない。ものすごく「突然」、「やにわに」行動する。
そうした「突然の行動」は、その人の個人的な属性ではない。同じ光景を何度も見たし、バスの中でも目にしたから。スマホをいじっている、いないにも、年齢にも関係なく、かなり多くの人たちが、周囲の人に無関係に、つまりコミュニケーションを取ろうとせず、いわば自分勝手に、自分の都合だけで行動しているのだと思う。私は、電車でも、バスでも繰り返される、徹底した社会性喪失の光景に本当に驚いた。私が東京で暮らした三十年ほど前には、こんな気味の悪い情景を眺めた記憶はない。
東京で暮らす娘に、その話をしても、彼女は「そう言われれば、そうかも知れないね」と食い付いては来ない。日々そこで生きる人たちには、日常の風景になっていて気にも留めないし、気にしたところで何ほどの意味もないのだ。
電車やバスの中だけでなく、駅のプラットホームでも、バス停でも、歩きながらでも、スマホをいじり続ける人たちの巨大な群れの中に身を置いてみて、何となく理解できた。「三・一一フクシマ」を経験したこの国の半数以上の民は、原子力発電に頼らない暮らしを求めているにもかかわらず、政治はまるで逆の方向に突っ走っている。そうした国民の声に耳を貸さない、無視する、うその情報を流す政府・為政者に関する報道も十分とは言えないが、ちゃんと発信されている。だが、自分の都合だけで、やにわに行動する民の増殖に象徴されるように、それぞれの意思を、あるいは予定を、考えを、周囲の人に伝えようとはしない。みんな、孤立してスマホをいじり続ける。イヤホーンを耳に差し込み続けるのだ。何とも重たい気分で、「二〇二〇年東京オリンピックを成功させよう」の垂れ幕やら、のぼりやらを眺めた。

(工藤 稔)

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