二世帯住宅の隣で暮らす孫がもうすぐ六歳になる。口が遅いと気をもんだが、今では語彙(ごい)も豊かになって、驚くような単語も使って、活舌良くおしゃべりをする。「この子が成人する頃は、どんな社会になってるかねぇ」と家人がため息をつく。「今よりも良くなっているってことは、まずないべな」と応じる私。
家人とは戦争から六、七年後に生まれた同世代。老夫婦が過ごした少年・青年時代の未来は、間違いなく明るかった。「将来、貧乏になる」なんてあり得なかった。「豊かな未来が来る」と信じられた。豊かさの意味は別にして。少なくても、食べるものに事欠く日常なんて考えられなかった。半世紀を生きて、いまの子どもたちはどうなんだろう。
「子ども食堂」と見出しが付されたフェイスブックの投稿。赤ちゃんを抱く幼児と、それを見守るお母さんや少し大きな女の子の写真が添付されている。旧知の市役所職員のものである。以下、引用する。
――「子ども食堂」
世間にかなり浸透したこの言葉。皆さんのイメージはどうですか?
報道でもよく目にしますが、紹介のされ方が貧困や栄養不足の子どもに対して食事を提供するというものです。
課題を抱えた子どもという印象からかモザイクがかかっていることが多い。
私もエンむすびの会という活動をやっているので、そうした印象を持たれるのか「大変ですねぇ」と声をかけられることがしばしばです。
でも私はその印象に違和感があります。私のやっている活動は週に一回です。旭川のほとんどの子ども食堂は月に一回。そんなもので、栄養補給にはなりません。週に一回お腹いっぱい食べたって、次の週までお腹が持つはずがありません。
実際に来ている子ども達の中には、貧困や栄養不良の子どももいるでしょう。私は家庭の事情などは聞かないのですが、子ども達から語ってくれることがあるので、そういう子がいることも知っています。
だけど、そうした子も、そうでない子も、がっついて食べることはありません。そんなんで足りるの? というくらいちょっとしか食べない子が圧倒的に多いです。
では意味がないのか、というと、やっぱり意味はあるのでしょう。栄養の補給にはならなくても、経験の補給にはなるからです。
食事が楽しいということを経験すること。食べたことがないものを食べてみること。知らない人と知り合いになり、一緒に食事をすること。お手伝いをして、誰かの役に立つこと。かっこいいお姉ちゃんやお兄ちゃんに会うこと。信頼できる大人と出会えること。
そうした経験は、ほんの一回でも貴重なものだと思います。そして演出してつくれるものではなく、みんなで集まって一緒に過ごす時間の中で偶然手に入れるものです。
そんな偶然を目撃することはものすごく楽しく、私にとっても学びになっています。私がみんなにもらっている経験は、自分の成長の糧になっています。
この活動を始める前とは、自分には違った景色が見えるようになりました。「人が変わったね」と声をかけられることも何度もあります。髪が減っただけではない…と、思います。
経験は得難く貴重。それをたくさん味わえる場所。だから、この活動は私にとっても大切なものです。
子ども食堂は、決してネガティブな場所ではありません。そうあってはならないと私は思っています。よければ、遊びに来てください。みんな楽しそうにしてますから。
写真は大好きな景色。小さな子どもを連れて来てくれたお母さん。その子をまだ小さい子がだっこしたり、ちょっとお姉ちゃんがちょっかい出したり。
かわいいったらない(引用終わり)
名前を出しても良いと了解をもらっているが、書かない。分かる人には分かるから。
(全文は本紙または電子版でご覧ください)
(工藤 稔)
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