福島県いわき市で生まれ育った獣医師・武藤健一さん(68)に誘われて、フクシマを訪ねる旅(五月二十八―三十一日)のリポート四回目。

五月三十日、新千歳、仙台空港経由でフクシマに入って三日目の夜、原発事故の完全賠償をさせる会事務局長の菅家新さん(66)と食事をしながら、話を聞いた。会津生まれ。元高校の数学の教師。菅家(かんけ)さんは、「元の生活をかえせ・原発被害いわき市民訴訟原告団」の事務局も務める。

東電福島第二原発がある楢葉町と接する、いわき市に住む。「原発が立地する隣の町の住人として、原発事故で被災した現地を知ってもらいたいんです」と静かな口調で話した。「原発がある町の住人は、反対運動はできません。住めなくなってしまいますから」とも。

東日本大震災が起きた二〇一一年三月十一日から翌十二日にかけて、全国紙の記者も、地元紙の記者もいわき市から逃げた。津波の被害も、原発事故も、どういう状況なのか、地元なのに全く情報がない。原発の爆発もNHKのニュース映像で知った。いわき市の人口三十五万人のうち、十八~十九万人が市外に自主避難した。情報がない中で、多くの人が様々な形で被ばくしたとみられる。当時、菅家さんは現役の高校教師だった。教え子の女子生徒が「私、もう子ども産めないよね」「地元の男性としか結婚できないよね」とささやき合ったのは、本当の話だと言う。

菅家さんは、今も原発や津波の被災者が暮らす仮設住宅や復興住宅を訪ねて話を聞いたり、相談にのる活動を続けている。「原発事故は、寄って立つものを全て失くしてしまう。生業はもちろん、じいちゃんや、ばあちゃんの生き甲斐まで奪う。地域すべてが崩壊するということです」「子どもをどこで育てるか。それが夫婦別れの原因になる」「多少線量が高くても、年寄りは、元の家に帰りたい。若い娘や息子は帰りたくない。家族の崩壊ですよ」。

いわき市に、東電第一原発が立地する大熊町から避難してきた人たちの仮設住宅がある。いわき市は第一原発から二十㌔圏外、放射能の汚染も少なかったとされる。それでも、仮設で暮らす人たちは、水道水は使わない。コメを炊く水も、お風呂の水も、ペットボトルの水が圧倒的に多いという。そして、原発事故前は、山形産のコメを食べていたが、事故の後は、福島産に替えた人が少なくないという。山形県は、高濃度のプルーム(放射能雲)が風で流された、第一原発から北西方向に位置する隣県である。「福島のコメは全袋検査をしているから、むしろ安全だ」。

菅家さんと軽くお酒を飲みながら夕食をとったのは、いわき市内の繁華街にある魚を売りにする居酒屋だった。「いわき沖で獲れる魚介は“常磐モノ”と呼ばれ、東京・築地でも高値で取引されたそうだ。そうしたブランドも原発事故ですべて、なくなってしまった」と、いわき市で生まれ育った武藤さんは言う。この居酒屋でも、地元産の魚介メニューは皆無。菅家さんは「北海道のモノを使っていると聞いている」と教えてくれた。

(工藤 稔)

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