武藤健一さんが執筆する自然エッセー『ふらり野へ森へ』は今号で五百一回目。年間五十週くらいだから、ほぼ十年間、続いたことになる。一読者として、まったく残念だが、次号で『ふらり野へ森へ』は終了する。

 武藤さんのエッセーは、あさひかわ新聞の創刊から三年後の一九九六年(平成八年)四月二日号の『雑木林を歩く』に始まる。武藤さんの文章に、大雪と石狩の自然を守る会会員の上岡知子さんが、草花の素敵な絵を描いてくれた。

 武藤さんとの出会いは、比布町との境界にある突哨山の雑木林にゴルフ場造成の計画が浮上した一九九〇年、「身近な自然を壊すな」と市民が立ち上がり、突哨山と身近な自然を考える会(出羽寛代表)が設立される、準備会のような集まりだった。武藤さんは考える会の初代の事務局長として、会報「突哨山通信」を発行するなど会の活動をけん引した。

 思えば、出会いの仲介役をしてくれた嵐山ビジターセンターの初代事務局長だった女性は、もういない。考える会誕生のきっかけをつくってくれた農業者の先輩も一昨年、急逝した…。三十五年前、武藤さんも私も四十歳代だった。まさに、「光陰矢の如し」である。

 『雑木林を歩く』のあと、武藤・上岡のコンビで、『上川の野を歩く』『花の山逍遥』『ケン坊のまた旅日誌』と、途中何度かのインターバルをはさみながら自然エッセーは続いてきた。

 武藤さんは一九四九年、福島県いわき市の生まれ。獣医師で、日本野鳥の会会員でもある。『ケン坊のまた旅日誌』では、鉄道ファン、いわゆる「乗り鉄」(列車に乗車することを愛好する鉄道ファン)としての一面を存分に見せてくれた。日ごろ、「僕は花の研究者ではないから」と謙遜するが、なんのなんの、その旺盛な探求心、どん欲とも言える研究心は、「この人は、植物学者になっても大成したことだろうな」と想像させる高いレベルだ。それは野鳥についても言える。

 獣医師として道内各地に勤務した。コラムを執筆した三十数年の間に六回の転勤を繰り返したが、小紙の連載に一度も穴を空けることはなかった。長い旅に出ることがあっても、事前に二回分、三回分と原稿を入れてくれる。編集に関わる者としては、まことに有難い執筆者であった。
 二〇一一年三月十一日に発生した東日本大震災と、震災による東京電力福島第一原発の過酷事故の後は、定期的に故郷・福島に通い、その変わりようを見届けて、科学者としての視点を交えて、故郷の悲惨な情況を伝えるリポートを書いてくれた。今年も、三・一一に合わせて、まさにいま福島の地にいるはずだ。自然エッセーの連載は終えても、福島リポートは続けてもらうようお願いしているところだ。

 さて、小欄で何度も繰り返し書いた、旧総合市庁舎「赤レンガ庁舎」について、市議会で久しぶりに取り上げられた。四日の代表質問で、無党派Gの野村パターソン和孝議員が、今津寛介市長に次のように質問した。

 ――旧庁舎の耐震性検査手法の適切性について疑義が生じている。新庁舎への建て替えの動機となった耐震脆弱性が事実でなかったとすると、旧庁舎の利活用についても新たな判断ができるのではないか。解体の方針に変更がないにしても、使用されているレンガをどこかに再利用するなど、旭川市の資産であるこの市庁舎を受け継ぐようなことは考えられないのか。
 今津市長は、次のように答弁した。