八月十四日号の小欄で、文房具店「江口日曜堂」のご主人、江口建二さん(86)の話を紹介した。アジア・太平洋戦争の時代を生きた方から、直接、お話を聞く機会はめっきり減った。日本社会の右傾化は、そのことと無縁ではないだろう。江口さんの話の中で、次の逸話が妙に印象に残った。

 ――一九四一年(昭和十六年)十二月八日、日本軍の真珠湾奇襲攻撃で始まった太平洋戦争の勃発時、江口さんは中央国民学校の四年生だった。一九三一年(昭和六年)の満州事変から、日本は常に戦争をしている状況で、まして第七師団がある軍都・旭川にいても、小学生だった江口さんには、戦争の気配は実感としてなかったという。(引用終わり)

 満州事変から、真珠湾奇襲による日米開戦までをざっと年表でたどってみよう。三一年九月十八日、中華民国の奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破。関東軍は中国東北部全土を占領。三二年三月、満州国建国宣言。三三年三月、日本は国際連盟から脱退。三七年七月、北京郊外の盧溝橋で日中の軍隊が戦闘、日中戦争始まる。その年の末には、日本軍が当時の中国の首都・南京を占領、大虐殺を行っている。翌一九三八年、国家総動員法公布、施行。一九四〇年九月、日独伊三国同盟締結。同年十月、大政翼賛会結成。十一月、大日本産業報国会結成。そして翌四一年十二月の日米開戦へと突き進む。

 こまごま書いたが、要するに、国は隣国で戦争を始め、戦線はどんどん拡大して、その戦費と新たな戦争の準備のために、国民生活は短期間のうちに雪崩を打って戦時体制に組み込まれていく状況である。その後の人生を垣間見るに、好奇心旺盛で、鋭敏な感受性を備えていたであろう江口少年が、社会の変化に鈍感だったとは考えにくい。コトは、国民が感知できないように静々と、正確な情報は秘匿、管理され、ある種の高揚感を演出しながら進められたのだ。その結果、真珠湾奇襲の成功が発表された時、国民はこぞって「バンザイ」の声を上げたのだったろう。国に、大本営に、国民の大多数は、“のせられた”あるいは、自ら進んで“のっていった”のである。

 八月八日付毎日新聞の道内面で、十勝管内本別町の歴史民俗資料館が収蔵する日中戦争に出征した兵士に渡された日章旗に「支那の子供を愛して下さい」との寄せ書きがある、と伝える記事を読んだ。「戦勝を祈る」「武運長久」「皇紀二千六百年の意気を示せ」「大和魂発揮せよ」など、当時の社会の空気を象徴する、威勢のいい言葉が並ぶ日の丸の旗の中の一文。書いたのは、当時町内の小学校教諭だった川原井清秀という名の男性。プロテスタントを信仰するクリスチャンで、師範学校を卒業し、教職に就いて間もない一九四〇年頃、町から出征した男性のために書いたものだという。川原井さんは、戦後間もなく、二十八歳で病死した、と記事にある。

(工藤 稔)

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