首都圏で生まれ育ち、転勤のため一昨年から旭川に住んでいる友人と酒を飲んだ上のヨタ話で、車の運転の話題になった。

 そうそう、その話の導入部は、小欄二月二日付の「ツキノワグマを馬鹿にする道産子」についてのアレやコレやだった。「八十何歳の老人が熊に襲われ、鉈一つで応戦奮闘し、全治二カ月の重傷を負いながら、熊を撃退したというニュースを聞いた時、ほとんどの北海道人は、『熊っていっても、しょせん、月の輪熊だろう?』と半ば軽蔑の感想を漏らす。つまり、本州のツキノワグマと北海道のヒグマを差別することで、道産子としてのアイデンティティーを確認するがごときなのだ」という話。じゃあ、試される北の大地で生きる人間たちの車の運転はどうなの? という訳である。

 彼は言う。「赴任して初めて車を運転した時、北海道は本州とは違う独自の交通規則があるのかな、本当にそう思ったよ」と。「ウインカーにしても、ブレーキにしても、割り込む、割り込ませるのタイミングにしても、自分勝手、傍若無人、我がまま、つまり周囲に対する目配せ、思いやり、調整する気持ちなんてさらさらない。表現が良くないかも知れないけど、五十歳を過ぎて、お情けでようやく免許をもらったオバサンドライバーが山ほどいる、遮眼帯を付けて走る馬みたいに前だけ見て走る…。しばらくして、あぁ、これは北海道人の性格の一端を表しているんだなぁと納得しましたけどね」。

 私は二十歳過ぎに東京で運転免許を取得し、その後十年以上、仕事で都下の道路を走り回ったし、都落ちする折に何かの足しになるかも知れないと、かなり難儀して二種免許も取った経験があるから彼の言葉は良く理解できる。今も、運転していて「この田舎野郎め!」と、お下品な呟きを漏らす場面が少なからずあって、我ながら、車の運転の分野に関しては、誇り高き北海道人として極めて自虐的である。

 だが、「本州とは別の交通規則があるのかと思った」と言う彼は、私のように「北海道人は田舎者で、文明を有する以前の原野を走るごとく、周囲に目配りもせず、思うがままに車を運転するんだべさ」という自虐的な視点とは逆に、だから北海道には、そこで生きる北海道人には未来がある、と言い切るのだ。いわく――

 「語弊を恐れずに言えば、今の中国とか、ベトナムとか、いわゆる発展途上の国のようだ、と思うんだ。多少乱暴でも、世間知らずでも、衝突や"齟齬"があっても、気にしない。臆したり、周囲のことをおもんばかったり、調整したり、そんな気遣いをするよりも、大雑把に、自分の価値観で、定めた目的地を目指して真っ直ぐ走る。そんな気風が、まだ北海道には残っているんじゃないか。あなたが時折書いているように、北海道人はたかだか百年か百二十年か、本州の数百年、あるいは千年の歴史を積み重ねた土地と違って、いま歴史を作っている、現在進行形の未開の地で暮らしているわけだ。歴史の厚みも重さもない分、自由がある。因習や旧風に引きずられない進取の精神がある。あなたは、北海道人は、本州で食い潰した流れ者や山師や脱走兵のDNAを受け継いでいるなどと、反語的な謙遜をしてみせるが、だからこそ北海道には、明日がある、未来があると言えるんじゃないか」。

 彼は続ける。「北海道にとって、何が大事か、何を大切に守り、何を捨てるのか、それを取捨選択するための精神的、制度的な仕組みもまた、発展途上にあると思う。本物の地方分権とか、地方政府の樹立とか、ちょうど政権が替わって新しい地方自治が試される時代になった。まして、公共事業が命綱だった旭川だ。次の時代、どんな仕事で飯を食うか、どんな経済構造になれば豊かさを実感できるまちになるか、日本中で景気が悪い、政治が悪いと嘆き節の大合唱の今だからこそ、考えられるんじゃないかな」。

 威勢の良い言葉を発しつつ、「交通事故による死者数だって、人口比にしたら、北海道はそれほど悪くないだろう。自分勝手な運転をしているように見えて、案外、それなりに安全運転をしているんじゃないか。中国・上海に行ったら、運転規則なんかあるのかな、マナーなんてクソ食らえ、そんなレベルだよね。決して乱暴な運転を推奨するわけじゃないが、人のエネルギーが車の運転にも表れる、それは言い過ぎか」と笑った。

 枕のつもりで書き始めたのだが…。改めてものの見方は様々だと気付かされた一夜の報告で、お茶を濁すわけでは決してなく…。

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