前週、原発のことを書かなかったら、読者でもある友人がわざわざ電話をかけて来て、「どうしてやめた」と言う。

 「三月十一日以降、お前は毎週、原発について書き続けて来たではないか。大マスコミの報道は、いつの間にか、原発事故そのものよりも、被災者に視 点が向いている。爆発した原発の建屋が、いまどうなっているのか、あれほど騒いだ大量の高濃度の汚染水は、どこにいったのか、その映像が紙面や画面に出る ことはほとんどない。オレたち報道を受け取る側の人間は、原発事故はもう沈静化したのではないか、放射能ももう放出されていないのではないか、そんな印象 を持つ。だが、事実は違うんだろう? 中には、この状況の中で『それでも、原発は推進しろ』と主張する新聞さえある。お前は、一貫して『原発は危ない』と書いて来た。オレには、お前が、言葉は 悪いが、この原発事故が日本の社会が変わり得るチャンスじゃないか、と直言していると思えた。読者の中には、『工藤は、また今週も原発か』と食傷する人も いるだろうが、その批判を承知で原発を書き続けるお前をオレは評価していた。それなのに、どうしてやめた」

 この友人がおっしゃる通りで、私は、フクシマが、この国の「幸せ」についての価値観を大きく変える契機になるかも知れないと考えたし、今でもその 期待を抱いている。三月十一日までは、生命よりも経済の方が大事だ、原発を受け入れるだけで、国や電力会社が莫大な金をタダでくれて、その上雇用が産み出 される、国や電力会社や偉い学者先生や政治家が、マスコミも後押しして、みんな「安全だ」「事故など起きない」って口をそろえて言ってるじゃないか、万が 一、事故が起きたら、その時はその時だ、今、安穏な暮らしが保証されるなら、明日は野となれ山となれ、ハッハッハー、と原発が立地する村や町に住む当事者 も、部外者に思えた私たち、大多数の国民も、高を括っていた。たった一カ所の原発が事故を起しただけで、国中に、これほどの災厄が及ぶとは想像できなかっ た。そうしたノー天気な、非科学的な価値観が、「三・一一」を境に百八十度引っくり返ったはずではないか。この期に及んでなお、「経済のために、現状の豊 かな消費を維持するために、原発は必要だ」という主張がマスコミを通じて大っぴらに撒き散らされるとは思いもよらなかった。

 不謹慎を承知で言えば、もし、五十四基ある国内の原発のうち、もう一基がフクシマのような事故を起したら、日本は世界から相手にされなくなるだろう。円高だ、TPPだと大企業の団体や政界の一部、学者は騒いでいるが、“放射能まみれの国”の商品や産物など、誰が買うか。

(工藤 稔)

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