「原発事故、なかったことにしたいんですね」――。買物に行くと、決まって世間話をする店の男性オーナーNさん(49)が、ため息をつくように言う。

 Nさんは宮城県の出身。二〇一四年十月、それまで勤めていた宮城県の会社を退職し、妻(46)と二人の息子が暮らす旭川にやって来た。

 東日本大震災が起きた二〇一一年三月十一日、妻は次男の出産のため三歳の長男を連れて旭川の実家に里帰りしていた。

 押し寄せた津波は沿岸の家やビルや町やすべてを飲み込んだ。死者行方不明者は二万五千九百四十九人(災害関連死を除く)にのぼる。そして、東京電力福島第一原子力発電所が爆発する。放射能は隣県の宮城県にも降り注いだ。

 次男を出産した妻は、宮城に帰ることなく旭川に留まった。長男の誕生を機に、職場から近い大河原町に三十五年の長期ローンを組んで住宅を新築して三年目。Nさんは、“逆単身赴任”の形になり、新築の家で一人暮らしになった。Nさんは当時を振り返る。

 ――妻がいる北海道では「被ばくする」「危険だ」と盛んに報道されました。妻は、二人の子どもを連れて宮城に帰る気には到底なれない。ところが宮城では、東北大学の先生なんかが地域を回って「安全だ」「心配ない」と講演したりするわけです。僕も講演を聞きに行きました。でも実際は、大河原町でも学校や役場、公園などの公共施設は除染対象でした。

 ――当時、大河原町は平均毎時〇・二三マイクロシーベルトで、この線量は「追加被ばく線量」が年間一㍉シーベルト以下となる、一時間あたりの空間放射線量の「上限」の数値でした。高線量であれば移住する決断は早かったと思います。でも、低線量で「微妙…」ということと、宮城県は丸森町以外は「補償」の対象外でしたから、迷いました。

 ――妻は、「子どもを絶対に被ばくさせたくない」と言って帰って来ません。僕は職場の上司に、お酒の席で冗談めかしてですが、「そんな奥さん、離婚した方がいい」なんて言われたりしました。妻と電話で何度やり合ったことか。妻と二人の息子がいる北海道に移り住むということは、裏切ることになるんですよ。職場の部下や同僚、上司、親や兄弟、親類、友だち…、みんな宮城は安全だ、問題ないって思っていますから。当然ですよ、そう思わなきゃ住めませんからね。

 ――僕の実家は酪農家です。生き物を飼って、食べ物を生産している。その息子の僕が宮城を離れるということは、「宮城は危険だ」と認めることじゃないですか。親だって猛反対ですよ。それに僕は、津波で被害を受けた地域や企業の復興を支援する活動にも関わっていましたし…。どうやったら妻と二人の子どもを宮城に呼び戻せるか、どう説得するか、そのことばっかり考えていましたね。

 退職して、旭川の家族の元に移り住む決断をするのに三年かかった。長男が小学校に入学する前年の秋だった。それを逃すと二度と家族がひとつになれない、そう思った。Nさんと同じように、放射能を逃れて「母子避難」した家族の多くが五年以内に離婚している、とNさんは言う。プライバシーに関わることだから表面化しないが、原発がもたらした、許しがたい大罪である。Nさん夫婦も、その寸前の状態だった。

 福島第一原発の過酷事故から十一年、長男は十五歳、この春中学三年生になった。その長男が社会の授業で使っている「資料集」、いわゆる「副読本」のページをめくって、Nさんは目を疑う。東京法令出版の「2020―2021 グラフィックワイド 地理 世界・日本」の「東北地方の自然と歴史」のページに、「歴史・災害」の項目がある。「やませ」や「大ききん」などとともに、「東日本大震災」が取り上げられている。「三月十一日の地殻変動のようす」「復旧・復興にむけた取り組み」などが、図や写真を付けて詳細に解説されている。

 ところが、東京電力福島第一原発の事故については、記述がない。三歳の長男が、新しい、広い家から、旭川のじいちゃん、ばあちゃんの家に長く“居候”することになった、そして二度と帰れない原因をつくった、あの事故についての記述が一切ない。「原子力発電」の言葉があるのは、「資源・エネルギー」のページ。水力・火力・原子力発電を比較する表が掲載されているが、そこにも原発事故の記述は、ない。

(工藤 稔)

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