太平洋・アジア地域最大の空軍基地・嘉手納基地を一望する「道の駅かでな」をあとにして、名護市辺野古(へのこ)に向かった。

 残り二泊の宿は、「海と風の宿」(愛称・海風)という名のゲストハウス。つまり素泊まり。炊事用具がそろっていて、自炊が出来る。私は、一升のコメとインスタントみそ汁、缶詰などをスーツケースに詰め込んで来た。二段ベッドは二千円。私は三千五百円の一人部屋を使わせていただく。

 海風は、辺野古新基地の建設が計画されている大浦湾に面した瀬嵩(せだけ)という集落にある。オーナーは、成田正雄さん。六十三歳。横浜の出身。二十七歳のときに、交通事故で車椅子の生活になった。

 海風に到着すると、まずは風呂場とトイレに案内された。成田さんが障がい者目線で設計・改修した風呂場とトイレ。車椅子の人が介助がなくても風呂に入り、楽に用便ができる優れものだ。車椅子で、ただ一人、チベットからインドまでバスで旅をした経歴を持つ成田さんの面目躍如といったところだ。

 海風は、辺野古新基地に反対する人たちの拠点になっていて、長期滞在者も少なくない。私が泊まった二泊三日の間にも、女子大生やら、企業を定年退職した世代やら、オーストリアの女性やらが五、六人宿泊していた。

 オーナーの成田さんが、一九九六年十二月、当時の橋本龍太郎首相が、普天間飛行場を閉鎖・返還する代わりに、キャンプ・シュワブ(名護市辺野古)沖に新基地を建設すると表明した当時を振り返る。

 「オール沖縄で辺野古反対を掲げる今とは全く違って、誰も声を出さないんだ。地縁、血縁、職場の関係という中で、基地なんか嫌だと思っていても、声を挙げられない。この地域が反対で立ち上がるのに十カ月もかかった。最初は一人で、スピーカーを取り付けた車に乗って、毎日、『辺野古に基地は造らせない』と声を上げて走ったけど、誰も振り向いてもくれない。辛かった。それでも徐々に一人、二人と仲間が増えてね」

 「翌年、一九九七年の十二月二十一日、米軍の新基地建設に賛成か、反対か、住民投票があって、ぎりぎりで反対が勝った。ところが、その三日後、当時の市長は基地受け入れ容認を表明して、辞任したわけさ」

 「民主党政権になって、それまで沖縄は連戦連敗だったけど、なんとかなりそうな雰囲気になった。二〇一〇年の名護市長選挙で、反対派の稲嶺さんが、容認派の現職を破って当選した。あの人じゃなきゃ勝てなかった。沖縄の人たちの中に小さな種が残っていて、それが今のオール沖縄という形になったんだと思う」

(工藤 稔)

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